質問と回答

1.社会情報と機械情報の具体的な境は何ですか?

投稿日時: 06/20 中島 聡

社会情報と機械情報の具体的な境は何ですか?

 質問者 G.Nさん

回答

 “誰にも共通する具体的な境”というものは存在しません。

 解説・説明

 機械情報は社会情報に包括されますので、機械情報は社会情報でもあります機械情報と社会情報を別のものであると理解してはなりません。この包括関係からすると、両者が区別できるような質問そのものがナンセンスです。また、社会情報が機械情報に変化する、という考えも、包括関係が捉えられておらず間違っています。定義に従うのならば、「社会情報は具体的にどこから機械情報としての性質を帯びますか?」という質問になるでしょう。以下は、修正した質問文に対しての説明になります。

 機械情報は「社会情報から意味内容が潜在化した(捨象された)記号そのもの」と定義されています。ここでポイントなのは、意味が潜在化されてしまったのは誰か、という点です。ある情報の意味内容が理解できるかどうかは、その人の成果メディアによって異なります。数学に知識が乏しい人には意味が理解できな(意味が潜在化された)数式も、その筋の知識がある人にとっては潜在化されていません。つまり、前者にとっては機械情報ですが、後者にとっては機械情報ではありません(※両者にとって社会情報であることに注意!)。同じようなことは色々な場面で生じます。例えば楽譜はどうでしょう。音楽に精通した人ならば、楽譜を見ただけでメロディーが頭に浮かぶことでしょう。でも門外漢にはさっぱり。私など、一音一音追えることができたとしても和音が出てきたらアウトです。このことは情報がデジタルデータになったとしても変わりありません、例えば、仮にUTF-8のコードを全て暗記している人がいるとすれば、その人にとってUTF-8のバイナリコードは機械情報にならないことになります。機械情報としての性質を帯びるかどうかは、その情報を扱う人の主観に左右されるので、「“誰にも共通する具体的な境”は存在しない」という結論になってしまいます。

  以上が理論的に厳密な回答です。ですが、現実問題としてバイナリコードを空でデコードできる人はまず存在しません。とするならば、修正した質問の回答としてデジタル化を挙げても良いように思えます。基礎情報学では天下りの客観性は否定していますが、社会における共通の了解による擬似客観性は認めています。なので、“バイナリコードを空でデコードすることができる人がいない”という共通の了解のある社会においては、「社会情報はデジタル化されることにより機械情報として性質を帯びる」と結論することは可能だと思います。このように、社会を限定することによって生じる疑似客観性により、「〇〇〇〇という社会ならば、社会情報は××××によって機械情報としての性質を帯びる」という結論はいくらでも出せるでしょう。なんだか常識の反意語の定義みたいですが(笑)。